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  音楽家 24期 内藤佳有さん

    内藤さんは大学を卒業し、一旦サラリーマン生活に入った後も音楽活動を続けていましたが、
    38才の時に本格的な音楽家としての道を歩む人生の決断をし、
    指揮学を学び直して、現在は、指揮者として国内外で活躍されています。

                                     <24期 石尾 勝>


       
             
みたかジュニア・オーケストラ定期演奏会にて


      
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     物心ついた頃には母(なぜか今でも筑齣音楽祭の審査員なのだ)の膝の上で沢山オペラを
     見、訳も分からず有名なアリアを原語で諳んじている生意気な少年だった。


     小学校の音楽の先生はユニークで、東京文化会館の大ホールで五年生300人を率いて自作の
     オペレッタを指揮された。バンドもソロシンガーも生徒、自分は初めて広い舞台でピアノ
     を弾いた。これから何度もここに立つことになろうとは…


     中学の多田逸郎先生との出会いは忘れもしない、最初の授業でスピーカーを伴奏に僕等の
     目の前でリコーダーを吹かれた。こちらは何だか怖くて緊張もしたが、初めて身近に超一
     流音楽家と出会い、全身痺れた。「多田っ子」が大勢産まれた訳だ。


     中学卒業と同時に先生は隣に出来た都芸に行かれ、高校からは優しく美声の遠藤正之先生
     のもとで、駒場フィルと称して伸び伸びと音楽の真似事。「皇帝」「ラプソディ・イン・
     ブルー」とピアノを弾かせてもらった挙句、無謀にもベートーヴェンやらショスタコーヴ
     ィチやらの指揮まで見様見真似でやってしまった。実を言うと指揮がやりたかったのでは
     なく、オケの楽器が弾けなかったのでそうするしかなかったのだ。


     でも自分は音楽家になるつもりはさらさら無く、何となく理数系に行くつもりだったが、
     高三の時友達に誘われて江戸時代の古文書を解読するゼミに参加し、えらく面白かった経
     験がずっと心に残っていた。


     浪人中も教齣の音楽祭でティンパニを叩いたり、東大の駒場祭に潜り込んで先輩達の室内
     楽を聴いたりしているうちに、自分もオケの楽器が弾きたくなったので東大オケでチェロ
     を始めたが、段々飽き足らなくなり、機会を見つけては朝比奈隆、山田一雄、尾高忠明、
     井上道義、小林研一郎など有名な指揮者のもとでオケに嵌っていき、いつしか指揮者の一
     番近くで弾くようになっていた。


     コンピューターの会社に就職し、テキサス州のオースティンという所に赴任して現地のオ
     ケに入ったが、首席がアル中で入院してしまったので後任を務める羽目になった。ここで
     失敗を重ねながら英語で指揮者やメンバー達と次第に意思疎通できるようになったことは
     後々大きくプラスになったと思う。


     帰国後会社のオケに指揮者がいなかったのでまた見様見真似をすることになり、そのうち
     外からも指揮の依頼が増えてきたが、平日は毎日残業、深夜のタクシー帰りが続いて死ぬ
     かと思い、二足の草鞋のどちらかを捨てる瀬戸際に来た。38歳、これからの人生、音楽が
     出来ないのは悲しい。ではどうする?


     ふと思い出したのが教齣での古文書ゼミ…古文書を自筆譜に置き換えてみたら…長く疑問
     に思っていたこと、即ち作曲家が書いた楽譜を如何に読み解いて音化するか。その際、原
     理は何かあるのか。これを探ることこそ生涯の課題と決め、桐朋学園大ディプロマの指揮
     科に入って古楽から現代音楽、指揮、声楽、チェロ、ピアノ、室内楽、伴奏、オケ、ブラ
     スバンド、オペラ、音楽史、音楽理論、ソルフェージュ…手当たり次第首を突っ込み、様
     々な分野の先生達・学生達と仲良くなった。


     そのうちある先生に呼ばれて上野学園大で指揮を教えるようになったり(17期の渡邊順生
     先輩と同僚)、みたかジュニア・オーケストラを任せられたり、新日フィル(多田先生の
     ご子息がチェロ奏者)に度々呼ばれて音楽監督クリスティアン・アルミンク氏のもとで副
     指揮をするようになったりして、多くの人々に支えられながら音楽を続けている。


     人生何がきっかけで転機を迎えるか分からないが、日本人が好きなこの道一筋一人で没頭
     していても事は起こりにくい。色々な事に興味を持ち、首を突っ込んでみることが将来の
     肥やしになったとしたら、素敵じゃない?


       
    
指揮者3人:右からキンボー・イシイ=エトウ氏、クリスティアン・アルミンク氏、私
              (すみだトリフォニーホール楽屋にて)




                              <2013年10月 若葉会HP委員会


 



  チェンバリストへの道 17期 渡邊順生さん


     ―チェンバリストへの道―渡邊順生氏に聞く―

    本校17期卒業の渡邊順生氏は、2011年度のサントリー音楽賞を受賞するなど、チェンバリストそして古典派
    音楽の研究家としてめざましい活躍をしています。
    中高校時代からピアノの名手で、彼の英雄ポロネーズの演奏が耳に残り、目に焼き付いています。
    私は、高校卒業後、彼は音楽の道に進むのだろうと思っていました。しかし、1969年、大学紛争の中で東大
    入試がなかった年の進学先は一橋大学、そして、風の便りで、卒業後に音楽の道に進んだと聞きました。どんな
    思いで高校から大学への進路を選択し、どんな経緯でチェンバリストの道に進んだのか、今回、HPの企画の特集
    の依頼を受けた機会に、渡邊順生氏にじっくりと聞いてみました。
                                                      <17期 丸浜 昭>

       
                  渡邊順生さん                  丸浜昭さん

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   <高校から大学時代の演奏活動>


    ◇高校時代から演奏活動をしていたね。音楽仲間がいて。
      渡邊:バイオリン、フルート、リコーダー、そしてピアノ。結構本格的なものだった。


    ◇てっきり音楽の道に進むのではと思っていたけど…音楽の道は考えなかった?
      渡邊:考えなかったわけではないけれど、親の反対もあった。自分もとりあえずは普通
       大学へ行って、音楽は学内のサークルなどで趣味としてほどほどにやり、ゆくゆくは
       音楽関係の仕事に、というようなことを考えた。でも音楽をやりたいという気持ちは
       あり、まあ、結論の先延ばしというところだったかな。


    ◇大学ではどんな生活? 音楽漬け? 駒場の仲間との演奏を続けていたの?
      渡邊:そう、僕たちの時は、入学してからほとんど授業もないという状態だったことも
       あり音楽漬けだった。3つの場があった。一つは、大学の授業がないからまだ新しい
       友だちもできず、高校時代の仲間との演奏。これは、バロックが中心だった。
       そして、高校の先輩から紹介してもらった東大オケのバイオリニストなどとのグループ
       ができた。ここでは、古典派やロマン派のピアノトリオなどをやった。三つ目は自分の
       ピアノで、大学1、2年でバッハにはまった。


    ◇多田先生の影響は大きい?
      渡邊:もちろん大きい。でも、中高時代は僕はロマン派にはまったりして、最初のころ
       はリコーダーとバロックの音楽授業に反発もあった。ある時期はヴェルディとワーグ
       ナーにのめりこみ、二人のことを多田先生に話しにいった。そうしたら、先生はじつ
       によく知っており、とくにワグナーについてはすごかった。これはただ者ではないと…。
       そして大学、あのころはバッハといえばグレン・グールドのピアノという時代で、
       独奏ではバッハばかり弾いて1年を暮らした。


    ◇こういう中で音楽の道は考えなかった?
      渡邊:本当にやりたいのは演奏家をめざすこと、でもこのお金の世界でそれは厳しく
       難しい。だからまあ何らかの形で音楽に関わる仕事をしていこうと、音楽関係の仕事
       をと探したりした。自分自身の夢を捨てて、妥協してサラリーマンになる。その安定
       の上で、音楽を材料にして仕事をして行けたらと思う。でもそこにはウソがあった。
       そこに自分自身に対するごまかしがあることにすぐ気づくわけだ
       大学2年に進むときは、一時期フランス革命を研究しようと決めた。ちょうどその研究
       の第一人者の先生がいて、友人と二人でそのゼミに入る挨拶にも行った。
       ともかく生活設計が守る方向、守る方向に向かっていた。それが、チェンバロと出会っ
       たことで一気に攻めの方向に転じた。


    ◇大学2年で初めてチェンバロと出会った!?
      渡邊:それほどチェンバロが広がっていた時代ではない。大学2年のとき、横浜のヤマハ
       でバイトをしていて、そこに、ある音大に納品するチェンバロが一時置かれることに
       なった。弾かせてもらえないかと頼んだら、バイトをやって信用されていたので、
       渡邊君ならいいだろうと、いうことになった。そこでバッハのゴールドベルクから
       イタリア協奏曲などいろいろと弾いた。そして、これだ、という思いになった。
       チェンバロならプロとしてやっていけるのではと考え始めた。いろいろと動き始め、
       多田先生に紹介していただいて、小林道夫氏に習うことができた。


    ◇チェンバロをやりながら、よく卒業できたね。
      渡邊:フランス革命のゼミの先生には、本格的にチェンバロをやることにしたので
       ゼミをやめさせてくださいとお願いに行った。まあ、当時の文系はレポートが多か
       ったし、卒論も17世紀の音楽の何とかとか、テーマは忘れてしまったけれど音楽の
       ことだった。


    ◇留学をしたのは卒業後?
      渡邊:チェンバロを始めたときから留学を考えた。日本ではチェンバロはまだまだ、
       やはりヨーロッパかなと。そしてやる以上は世界の第一人者に習って認めてもらおう
       と、レオンハルトのことを調べた。


    ◇プロをめざすことの心配は?
      渡邊:お天道様と何とかはついてくるというけれど、がんばってやっていけば何とか
       なるだろうと考えた。自分がチェンバロで世界を相手にやっていける腕前かどうなの
       かは考えた。そこで、それはもう二人とはいない世界的な師匠について、その師匠の
       判断にゆだねるしかない。コンクールは一発勝負だし、点数化される審査が自分の何
       を表しているか、あまり信用しない。世界一のチェンバリストと見込んでそこに人生
       を預けるつもりで習おうと決めた。


    ◇実際にはどのようにして留学した?
      渡邊:レオンハルトにコネがあるわけでもない。だからオランダの音楽院に手紙を書い
       て問い合わせたら試験の規則書を送ってきた。当時は音楽のデモテープで一次審査が
       あり、それを通れば、試験を受けて落ちることはなくとりあえず1年間はみてもらえ
       るようになっていた。その通りにやってそこは通った。
       ただ、つぎには先生(レオンハルト)に直接見てもらえるかどうかの関門がある。
       そして次の年に先生に見てもらえるようになっても、1年たつと約束通りこれで終わり
       という人が圧倒的に多い。その中で認められてやっとソリストディプロマの取得まで
       面倒を見てくれることになる、というようなことが向こう行ってからわかってきた…。


    ◇それでどうなった?
      渡邊:9月に向こうに行って、最初はレオンハルトに直接ではなく、別の先生のクラス
       で習った。でもまもなく、10月頃だったか、君は来年から私のクラスに来るようにと
       いうことになり、これで第一関門通過だった。そしてレオンハルトに習い始めると
       すぐに、あなたは1年だけでなく今後もと言ってもらえ、ディプロマ取得まで面倒
       を見てもらえるというところまでは比較的早く進むことができた。
       卒業する時までには、彼にどんな評価をされているかいろいろ探りを入れてみたりし
       た。そして卒業試験の成績は歴代2位だということがわかった。これであとは自分の
       努力でやっていける、能力的にはやれそうだなと思うことができた。卒業試験までに
       4年、あとは自分でやりながらいろいろな人のレッスンを受けたりしながら、滞在を
       延ばして結局7年いた。


    ◇日本に帰ってきてからはどのように?
      渡邊:帰ってからは、日本中心の演奏活動をやった。チェンバリストはまだ数は少なか
       ったし、古楽器、チェンバロは知られていなかったから、啓蒙的な演奏活動が多かった。
       伴奏とソロがあり、招待されるときはいいけれど、自分で企画するときはチケット
       を売らなければならなかった。


    ◇日本でやっていく上で画期となった印象に残っている演奏は?
      渡邊:海外から来た一流の演奏家と共演をしたことだ。チェロのアンナ・ビルスマと
       リコーダーのブリュッヘン。ブリュッヘンは最初の3回は小林道夫氏の伴奏で、4回
       目が僕になった。彼のリコーダーは多くの人を魅了し、古楽を広める上ですごい影響
       力があった。ところがそのブリュッヘンがリコーダーをやめて、18世紀オーケストラ
       を創って指揮者になってしまった。最近の指揮者としての来日に際し、彼のリコーダ
       ーのすばらしさ、やめたことを多くの人が惜しむこと、ことによると最後の来日かも
       しれないことと彼の大きな足跡のことなどを、パンフレットに書いたばかりだ。


    ◇この道を歩んできて…。
      渡邊:後悔はまったくない。大学のはじめのころの演奏は副業にして音楽に関わる仕事
       で生活を、というのはやはり自分の一番やりたいことではなかった。ウソというか、
       ごまかしがあった。そんな中でチェンバロと出会って、まあ何とかなると思ってやっ
       てきた。音楽をやっていなかったら後悔しただろう。


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   ◆たいへん興味深い話を聞くことができました。渡邊さん、ありがとうございました。
    なお、
 http://www.cembalo.com/ で、コンサート情報やブログが見られます。


         


                                  
2013年10月 丸浜



 


  ヴァイオリンを弾く大使 19期  西林 万寿夫さん


      西林さんは、外務省 在ギリシャ特命全権大使(2013年9月現在)で「ヴァイオリンを弾く大使」
      としても知られています。
      HP委員会からの依頼で以下の寄稿をしていただきました。

    
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            「日本人演奏家月間(2011年9月)若尾圭介氏と共演」



     -ヴァイオリンを何歳からどのようなきっかけで習い始めましたか?

     4歳の時からです。その頃自宅にSP(78回転盤)の蓄音機があり,これでクラシック音楽
    の小品を聞くのが大好きだったのでヴァイオリンを習い始めたのです。プロを目指した訳で
    はないので1日30分程度しか練習しませんでしたが,それでもヴァイオリンが好きだったの
    で毎日欠かさず弾いていました。


    -駒場中・高校時代に学校・友人関係で演奏されたことがありましたか?

     音楽祭で何度か特別出演させてもらったことがありました。高校時代に小さなアンサン
    ブルを組んで,ハイドンの「さよなら交響曲」の終楽章を演奏したことを今でもよく覚え
    ています。
    次第に奏者がステージから去り,最後に私ともう一人のヴァイオリン奏者だけが残るとい
    う仕掛けで,会場から笑いが起こりました。


    -その他駒場中・高校時代の音楽の思い出を教えて下さい。

     色々ありますが,中学で17期の渡邊順生氏と出会ったことは,その後の私のクラシック
    音楽好きを決定づけるものでした。同氏は現在日本のトップクラスのチェンバロやフォル
    テピアノ奏者として活躍されていますが,まだ渡邊氏が中3だった頃同氏が弾くショパン
    「英雄ポロネーズ」に圧倒され,また既に1000枚近くのLPコレクションをお持ちだった同
    氏よりレコードをお借りして,クラシック音楽にのめり込んで行きました。

     もう一人私に大きな影響を与えたのは多田逸郎先生。今から振り返ると,駒場中・高校
    は本当に偉大な音楽家を音楽教官としてお迎えしたものだと思います。先生の演奏するリ
    コーダーに感激し,バッハ以前の音楽についての授業を高校生で受けることができて幸い
    でした。

     ヴァイオリンを弾く私を常に励ましてくれていますが,今も時々演奏会場などでお会い
    します。83歳になられますが大変お元気です。


    -大学ではオーケストラに入られたそうですが,勉強との両立で苦労はありましたか?

     オーケストラで弾いていたのは4年の在学中2年半。本当はずっと弾きたかったのですが
    外交官試験を受ける為1年間休みました。またある曲が自分の趣味に合わず,半年間この
    曲に付き合うのは時間の無駄と思ってもう半年お休みし,代わりにアルバイトで金を溜め
    レコードを買いまくったこともありました。


    -そして外務省に入られた訳ですが,音楽に親しんで良かったということがありましたか?

     外交官になろうとした動機が不純で(笑),外国で本場の演奏に接することができる
    という期待,そしてヴァイオリンを通じて国際親善にお役に立ちたいという希望があり
    ました。外交官人生が終盤に差しかかった今,この期待や希望はほぼ満たされたと思い
    ます。

     今迄7ヶ所で在外勤務してきましたが,マレーシア,シンガポール,ボストン,サンパ
    ウロ,キューバでは仕事の合い間を縫って現地の人達と一緒に演奏しました。一方ジュネ
    ーヴやニューヨークでは聴く方が中心でした。余談になりますが,90年代後半に4年ほど
    産経新聞などに演奏会評論を連載していたこともありました。

     ニューヨーク総領事館では広報文化を担当していたので,同地在住の五嶋みどり,諏訪
    内晶子,竹澤恭子,渡辺玲子,佐藤俊介といった日本人ヴァイオリン奏者と交流する機会
    もありました。まあ役得みたいなものですが,仕事冥利に尽きるとはこのことでしょう。


    -音楽や演奏を通じた外交活動についてもう少し詳しく教えて下さい。

     これについては話し出すとキリがありませんが,一番最近の任地キューバでの体験を
    お話ししましょう。ハバナではピアノを弾く家内とチャリティーコンサートを実施し,
    また2011年9月には「日本人演奏家月間」を仕掛け,みどりの弟でヴァイオリニストの
    五嶋龍氏にニューヨークから来てもらい,その超絶技巧でハバナの聴衆を驚かせたのは
    痛快でした。

      
       
「チャリティーコンサート(2011年3月)奥さまと一緒に演奏」


     この時期はちょうど東日本大震災の半年後に当たったので,「日本人演奏家月間」の
    うち2つのコンサートを犠牲者追悼行事と位置づけ,私自身ステージに上がり連帯への
    お礼のスピーチと共にヴァイオリンも弾いてしまいました。
    1回はベートーベンの「ロマンス」。日本人指揮者福村芳一氏の棒の下,キューバ国立
    交響楽団と共演。生まれて初めてフル編成のオーケストラをバックにソロを弾くという
    アマチュアとしては無謀なこともしてしまいました。

     
        
「日本人演奏家月間(2011年9月) キューバ国立響と共演」


     またもう1回はボストン交響楽団で活躍する日本人オーボエ奏者若尾圭介氏を招いて,
    バッハの「オーボエとヴァイオリンの為の協奏曲」を演奏しました。この辺の事情につい
    ては,拙著「したたかな国キューバ」(2013年5月刊。アーバンコネクションズ社)に詳
    しく書きましたのでご一読いただければ幸いです。

     キューバではジャズアンサンブルの人達とも共演しましたが,これも貴重な体験で,
    現地では「ヴァイオリンを弾く大使」という評判が定着し,してやったりの気分でした。


    -その他音楽を通じた国際交流についてご意見などありましたらお願いします。

     外国での日本のプレゼンス,特に経済的プレゼンスは残念ながらここ20年ほどの間に
    相対的に低下し,中国や韓国に追いつかれ追い越されてしまっています。しかし文化面
    では多分日本語を除いてまだまだ日本のプレゼンスが大きい。日本語を除いてと言いま
    したが,中国は国策として凄い勢いで世界中で中国語を普及させているのです。

     クラシック音楽はもともと西欧文化ではあるけれども,この分野での日本ブランドは
    確立しているので大いに日本のプレゼンスを示していけるのではないでしょうか。

     十数年前に読んだ本の中で,ある日本人舞台芸術家が日本の外交官の文化度が低いと
    痛烈に批判した下りがありましたが,それも今は昔です。最近では多くの同僚が文化外
    交に力を入れ,それぞれ得意の分野で頑張っています。

     私もアマチュア音楽家の一人として引き続き音楽を通じて日本を売り込んでいきたいと
    思っています。


                                        2013年8月  若葉会HP委員会

 

 

  マージナル・マンのピアニスト 49期  森下 唯さん

        森下さんは東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻、大学院修士課程修了のピアニストで、フランス・
      ロマン派の作曲家、アルカンの紹介をされています。「生き別れの弟」の謎のピアニスト、「ピアニート公爵」も
      Youtubeやニコニコ動画で人気があります。


    
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               「マージナルな視点を忘れないように心がけたい」




   ―ピアニストの周辺人として

    「マージナル・マン」という言葉をはじめて知ったのは筑駒の中学時代、国語の授業で
    だったと記憶している。その先生の配るややこしい評論文のプリントを、当時はともかく
    ややこしいと感じてばかりいた気がするのだが、今でもこうして頭に残っているというこ
    とは、当時の自分にとって何かしら感じるところがあったのだろう。

     ピアニストとしての自分の立ち位置は結局、周辺人的なところに落ち着いた。別段その
    ようにあろうと努めたわけではない。性格的にも能力的にもそうならざるを得なかったと
    いうまでのことなのだが、この位置をそれなりに気に入っていることは確かだ。それに、
    自分にできることが多いのはこの辺りだろう、という見極めもようやくできてきた。


   ―「アルカン」と「ピアニート」

     将来設計なしにクラシック音楽という分野を進路に選び、ニッチ戦略でもなしにその分
    野でも辺鄙な場所をうろうろしていた私ではあるのだが、そうやって勝手をやっている間
    に、自分の活動を象徴するようなふたつの柱を――マージナルな位置に立つ柱を――手に
    入れられた。「アルカン」と「ピアニート」である。

     アルカンは私が大学時代に知ってすっかり惚れ込み、大学院でも研究テーマに選んだ作
    曲家だ。ユダヤ教徒として19世紀のパリを生きた彼は、まさしくマージナル・マンであっ
    た。古代ギリシャに強い関心を示すなど、同時代の作曲家仲間――シューマン、リスト、
    ショパンなど――とは一線を画する視点をもち、極めて刺激的な作品を生み出した。今に
    して思えば、私が彼の音楽に「ひと耳惚れ」したのは、音楽に表れたそんな彼の視野の広
    さに参ってしまったからなのだと思う。ちなみに今年、2013年は彼の生誕200年にあたる。
    誕生月の11月には記念演奏会やリサイタルもやりますのでご興味のある方はぜひ!


   ―マージナルな視点を

     もうひとつの柱であろうピアニート(ピアニート公爵)というのは私の「生き別れの弟」
    であり、筑駒文化祭の縁日班的なノリを引きずった活動をしている男だ。

     彼の活動のおかげでアニメ劇伴界の大先生、田中公平さんと仕事をさせていただく機会
    に恵まれる(あ、いや、彼が)など、驚きの展開もあった。最近では芸大の先生方にもい
    つの間にか彼の存在が知られていたりして、「この時代、視野を広くもって活動するに越し
    たことはない」などと、あんがい好意的な言葉をいただいたりもする。

     すべての芸術も娯楽もいっしょくたに「可処分時間の奪い合い」などと評される難しい
    時代だ。また、人間のあらゆる活動がコンピューターによって自動化されつつもある。や
    がて表現の分野までが機械知性に侵食されてゆくのかもしれない。そんな未来にあっても
    通用する何かを見つけられるのかどうか、マージナルな視点というものを忘れないように
    心がけて、探り続けていきたい。


      《森下唯さんのWebサイト》はこちらです ⇒HP


          


                                          2013年6月  若葉会HP委員会

 



  31期  後藤國彦さん

        後藤さんは30歳を過ぎて本格的に作曲に取り組み、その後ピアニストとしてもご活躍の異色の音楽家です。  
         HP委員会がインタビューを試みました。

    
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2013年4月5日 若葉会事務局室


   ―小さいころから英才教育を受けてきたのですか?

     全く無いです。小1の終わりに母から好きな学科を訊かれ、「音楽」と答えたことから
     なんとなくピアノを習い始めただけです。ただ好きだったのは事実です。高3の5月に
     発表会でショパンを弾く機会があり、ホロビッツやアルゲリッチなど名手たちのレコー
     ドを聴き較べて、自分ならこう弾く、と初めて表現者としての意識が芽生えました。


   ―駒場の学生生活は音楽とは無縁?

     中学は野球部、高校は卓球部で、音楽家になろうとは露ほども思っていません。但し
     音楽祭の記憶は鮮明です。クラスで好き勝手に選んだ曲を音楽の遠藤先生が男性合唱に
     編曲してくださいましたが、今思えば短期間に多数の編曲、本当に有難いことでした。
     私たちの「自由」は先生方に支えられていたのですね。


   ―音楽家になろうと思ったのは?

     大学は国際政治学専攻でしたが、アメリカに交換留学し、そこで趣味的に音楽学部の
     授業も受けたのです。すると一流の音楽家たちが教えてくれ、彼らが特別な異能者で
     なく、むしろ普通の知識人であることも判りました。その後、英国企業に就職、ロン
     ドンに派遣され、当地で音楽会に通い詰めるうちに、音楽をやりたいと真剣に思うよう
     になりました。


   ―それですぐに活動開始ですか?

     まだまだです。ロンドンから戻り、入社1年で退社、2年間音楽の基礎から勉強し直し
     てイギリスのシェフィールド大学に留学しました。帰国後フェリス女学院の音楽教室で
     ソルフェージュを教えたのが音楽家としての最初の仕事です。28歳になっていました。


   ―作曲やピアノ演奏については?

     音楽理論を学んでみると、考える筋道は数学などと同じでした。和声や対位法がわかれ
     ば論理学として音の構築はできます。理論学習の一環として作曲に取り組み、次第にお
     もしろくなりました。33歳の時、中学の頃から好きな夏目漱石の初期の詩による歌曲
     を発表しました。しかし、作曲は仲間うちの発表に終わりがちで社会との幅広いつなが
     りを欠く危険があり、また、元来ピアノが好きなので、より社会に向けて表現したいと
     考えて、2006年、41歳の時に「鍵盤音楽史」という企画を作り、ピアニストとし
     ても活動し始めました。


   ―これまでの活動の一端をご紹介ください。

     「鍵盤音楽史」は毎年続けている自主企画で、鍵盤音楽の歴史を多様に解釈・演奏して
     います。たとえば初回の「ハーモニー」では歴史上最古の記譜が残る鍵盤楽曲(14世紀)
     その後の様々な時代の作品を、時代順に演奏し併せて自作も初演して、自分がハーモニー
     についてどのように考えて作品を作っているかを提示しました(専門家でない方々は、
     音楽史の文脈がわからないことにより「現代音楽」を理解しにくい、ということが多々
     あるからです)。
     他に「分散和音」「連弾」「日本歌曲史」「変奏曲」「非平均律調律」などをテーマと
     してきました。
     それとは別に6年前に始めた「目から耳へ」は、川村龍俊さんの朗読(日本近現代詩)と
     私のピアノ演奏を交互に行うユニークなものです。作曲分野では、昨年は「三四郎」に
     よるモノオペラ(一人舞台)を作り、渋谷の酒場で初演し、私が伴奏もしました。


   ―今、力をいれていることは何でしょう?

     最近ドイツのオペラ歌手と知り合ったのですが、何か曲を書けというので「吾輩は猫で
     ある」による歌曲を送ったら2014年のバイロイト音楽祭で演奏する、と言います!
     同期の縄田雄二君(中央大学教授ドイツ文学)に多大なご協力を仰ぎ、音楽の起伏に合い
     かつ漱石の原文の思索性と味わいをそのまま保った独語訳歌詞が完成しました。
     音の論理と言葉の論理のこのような邂逅を大切にし、他方で、音そのものの(純音楽的な)
     力も磨き続けたいです。


   ―今後の活動はどのような方向へ行くのでしょう?

     20世紀後半は前衛的な音楽が主流でした。しかしそれも今では過去の音楽です。私は、
     より柔軟な、但し安っぽくないものを作りたいと思っています。


   ―精力的にご活躍ですが、ご家族も音楽志向ですか?

     高校生と大学生の息子がいますが、特に音楽家を目指しているわけではありません。私も
     不安定な生き方が怖かったけれども何とかなりましたから、息子たちも何であれ本当に
     好きなことをやれば道は開けると思います。


   ―駒場時代を振り返って一言お願いします。

     友人たちが優秀なので、自分は何を目的に生きればよいかと悩みましたが、そのように
     悩む機会を与えてくれた駒場の環境こそ、望んでも簡単には得られない貴重なものでした。
     好きなことに邁進している友人が何人もおり、自分も好きなことに邁進するしかない、と
     思うに到りました。今の駒場生にも、心からやりたいと思えることを追求していただきた
     いと思います。


   ―最後に若葉会にも一言お願いします。

     普段のお仕事などで同窓の方々に接する機会が多いと、逆に若葉会の重要性を認識しにく
     いかも知れませんがそのような環境にない自分としては励まされることが多いです。利害
     関係なく素直な交流ができるところがいいですね。
     若葉会報もいつも熟読させていただいています。


    本日は長時間にわたってご対応くださりありがとうございました。


                                                  2013年5月  若葉会HP委員会


 

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