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私の履歴書 筑駒11期 松平定知アナウンサー・「その時、人生が動いた」

         

 
                 インタビュアー 13期山本・15期羽鳥・30期平野
                              
2016年11月7日掲載



             「松平定知さんご紹介」

 読者の皆様、大変お待たせ致しました。
 「私の履歴書」第3弾です。全国的規模で周知されております11期の松平定知さんにご登場いただきました。松平さんは、元NHKアナウンサーとして長らく茶の間の人気をさらってきたお方であり、「夜7時のNHKニュース」をはじめ、「その時歴史が動いた」「藤沢周平作品朗読」等々、TVにラジオに、数えきれない程の番組でご活躍されました。柔らかな丸みのある御発声の中にも強い芯のある語り口、何よりもご自身のお言葉で情報を伝えて下さるので視聴者にとっても理解しやすく、一つの安心感を持って番組を楽しむことができました。
 NHKをご退職された後は、数々の講演会に臨まれるとともに、多くの著作物も世に送り出し、現在は京都造形芸術大学芸術学部の教授として、また、多くの大学で客員教授として、後進の教育に傾注されておられます。
 ここに、松平さんの人生が輝く節目<その時人生が動いた決断の背景等々>を中心にご紹介させていただきますが、特にこれから人生を切り開いていく若き筑駒生にとっても、将来の展望を模索する際の良きヒントになればと願っております。
 2016年10月4日、お忙しい中、時間を割いてインタビューに応じて下さいました。誠にありがとうございます。

 なお、松平定知さんにかかわる簡略な基本情報をご紹介させていただきます。
松平定知さんは、徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする伊予松山藩・久松松平家の傍流のご家系です。お父上の仕事の関係で松平定知さんは、1944年11月7日、満州国新京でお生まれになりました。なお、外交評論家で元NHK記者の磯村尚徳氏は従兄にあたられます。
 東京教育大学附属駒場中学・高等学校、早稲田大学を経て1969年にNHKに入局、その後、NHKで幾多の番組をご担当されました。関わられた番組名を概ね年次順に列挙しますと、
「NHKニュースワイド(スポーツ担当1980年度)」、「連想ゲーム(1981-1983年度)」、「きょうのスポーツとニュース(1984年度)」、「NHKニュース(午後7時、1985-1988年度)」、「NHKモーニングワイド(平日7・8時台 1989、1990年度)」、「NHK紅白歌合戦(1989、1990年)」「連続テレビ小説 かりん (1993年下半期・語り)」、「NHKニュース11(1995-1999年度)」、「その時歴史が動いた(キャスター/2000年-2009年)」、「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読(2005年『蝉しぐれ』から開始 退職後も出演され、2012年まで続投)」。
 さらに、「世界遺産100シリーズ(2007-2014)」、などと枚挙に暇がありません。
NHKスペシャルは「テクノパワー」[マネー資本主義]「日本人はなぜ、戦争へとむかったのか」などのシリーズ物のキャスターに、「大モンゴル」「12億人の改革開放」「世紀を超えて」や「新シルクロード」などのシリーズものナレーションや単発番組のナレーションを加えると、100本以上を担当。このほか、「英仏海峡トンネル開通記念特別番組」「地中海・ミレニアム記念大中継」などの海外長時間生中継番組など、数多くの番組をご担当されましたがここでは割愛させていただきます。

一方、著作品も多く、以下、代表的な数点をご紹介させていただきます。
【負けずにキザですが」(1985年11月、講談社)】
【歴史を「本当に」動かした戦国武将(小学館101新書)(2009年6月1日、小学館)】
【幕末維新を「本当に」動かした10人(小学館101新書)(2010年2月1日、小学館)】
【心を豊かにする言葉術(小学館101新書)(2011年8月1日、小学館)】
【謀る力(小学館新書)(2014年4月6日、小学館)】
このほか、DVDは「その時歴史が動いた傑作編」全12巻(講談社)など、CDも「松平定知が読む・朗読・日本の名作」全24枚(日外アソシエーツ)ほか多数、あります。

 前置きが長くなりました。さあ、松平定知さんは、その時、どうやって、人生を動かしてきたのでしょうか? インタビューではありましたが、ご本人の語り口調として、記述させていただきます。どうぞ、お楽しみください。そして、読者の皆様、ご自身の人生のヒントにされて下さい。


   


                 「本編」

 序文
 時系列に従っての細かい人生紹介ではなく、記憶に蘇るその時々のエピソードに焦点を当て、私の人生が動いてきた流れをご披露したいと思います。 特に、これから人生を切り開いていく若い後輩達の参考となれば、老兵にとって、こんな嬉しいことはありません。
(インタビュアー注:松平さんは71歳とはとても思えない、精悍な、若さの滾る堂々とした青年そのものとお見受け致しました)


 1.誕生       

 私は、1944年(昭19年)11月7日(火)に、父の赴任先であった満州の新京で生まれました。
終戦の前年のことです。翌年、母は、7歳上の姉を一緒に引き連れ、大変な苦労をして舞鶴に帰還したと聞かされています。戦後の混乱期は、母の実家が滋賀県三井寺にあったことから、そこからほど近い大津で過ごしました。琵琶湖のほとりの静かな町で、戦争直後の世のさまざまな動きをよそに、一人の幼児にはそれなりの、「楽しい日々」が、緩やかに流れていったように思います。


 2・小学校                         

 1951年(昭26年)4月1日、滋賀大学学芸学部附属小学校に入学しました。しかし、やがて、家族そろっての東京転居に伴い、2年生になったばかりの2学期からは、世田谷区立松原小学校に転校します。
 この時期で、直ぐに思い浮かべるのが担任の粕谷先生です。かつて、同窓会で、先生はよく話題にされました。「松平君は、関西から転校してきたので、関西弁でしたが、何の躊躇もなく、関西弁丸出しでバンバン喋っていました。また、小学校2年生の子供だと云うのに、体格が全く違う大の大人である私に、よく相撲を挑んできました。闊達な子でした。」
 「闊達な子」は、先生のリップサービスですが、振り返れば、確かに「おっとりした、思索型の、静かな子」ではありませんでした。


 3・中学校            

 中学は、ご近所の東京教育大学附属駒場中学校に進みました。入学してみると、「日本進学教室」という、中学校に入るための塾のようなところで顔なじみの友達が一杯いました。担任は、先生になられたばかりの深野明先生、若々しい、ファイト満々の、先生でした。また、何と云っても思い出に蘇るのは音楽の國分郁子先生です。音楽の授業だけでなく、國分先生を中心に、コーラスに熱中しました。これが、その後、高校、大学とコーラスを続けるきっかけになっています。音楽教室は旧兵舎の片隅が充てられていました。節穴だらけの薄暗い部屋でしたから、部屋の中にいると、昼間でも外の光があちこちの穴から差し込んできます。こうしたことから、この音楽教室を、私たちはプラネタリウムと呼んでいました。丁度、渋谷にプラネタリウムがオープンした頃だったんじゃなかったかなあ。
 中学校は2クラスで、我々の学年は総員82人。この、高校生時代も加えれば6年間一緒の仲間たちとの日々は本当に楽しかった。どの学年に戻りたいかと問われれば、断然、中学2年生です。小学校6年の時味わった受験勉強も高校進学にあたっては必要なし。また、自由の2文字は校風でもありますが、各自がそれぞれに自由を謳歌していました。陸上や卓球や柔道やコーラスや、みんなが好きな事を存分に熱中することができた時期でした。


 
4・高校     

 中高一貫教育ですから、自動的に、東京教育大学附属駒場高等学校に進学しました。中学と高校の区切りは特に感じませんでしたが、高校生になってみると、周りには、「地(ジ)あたま」の良い連中が多いなと改めて感じました。文化祭など催し物には最後まで参加していながら、その直後の模擬試験では立派な点数をたたき出すのです。しみじみと感嘆した覚えがあります。
 そうした中にあって、音楽祭などではコーラスを披露しましたが、当時、バスのパートリーダーだった男が、大学に行ってテナーパートになるといった風に、実力的には、相当いい加減なコーラスでした。自由な空気の中で、そうした学校生活をエンジョイし過ぎたせいかも知れませんし、先ほど言った「地あたまの良さ」が私にはなかったこともあって、大学受験では東大一発合格とはいきませんでした。というより、「浪人」は自分の中では、ずっと、「既定のコース」でした。ですから、普通に予備校通いをして、ま、結構勉強もしたんですけど、翌年もダメでした。自分が落ちるのは、そりゃあま、仕方がないにしても、私は人間が未熟なものですから、明らかに私より成績下位の者が合格するのを見て、何だかむらむらと腹が立ってきて、再挑戦しました。これで、合格していれば、話はそれなりに完結するのですが、次もダメ。この辺が[私らしさ]です。結果的に、私は早稲田大学に入学することとなりました。


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閑話休題1

 先日、旧富士銀行グループの「芙蓉会」の事務局から講演依頼がありました。その時の幹事社は「丸紅」で、社長の国分文也氏が開会の挨拶をされたのですが、何と彼は、中・高の6年間の音楽の先生、しかのみならず、コーラスでもお世話になったあの、國分郁子先生のご子息でした。私は国分先生のご自宅によく伺ったものですが、その時、まだ小学生くらい(だったと思います)の、小さかった文也クンと一緒に遊んだ記憶があります。半世紀以上ぶりの、思わぬところでの再会に、少し、胸が熱くなりました。


 5・大学               

 早稲田大学に入学した後は、学生生活をエンジョイするばかりでなく、多少は勉学も頑張りました。そのおかげで、学費免除の、所謂「特待生」に選ばれたこともありました。
 大学でも同様にコーラスを続けようと思いましたが、グリークラブには入部「試験」があるという噂を聞いて、今更、試験も無かろうと他の音楽同好会に入会しました。ところがそのサークルの目指すところが、私のような、コーラスをただ楽しむ、といったところではないことが分かったためほどなく脱会しました。やめる時、サークルの全体集会で「脱会の辞」を述べたのですが、それを聞いていた同じ一年生が7人、一緒に辞めると言い出し、結局、そのあと、この、総勢8人の仲間で、小さな会を作りました。各自、今後の行動は自由、所属部活も、もちろん自由。月に1回飲むこと以外は一切の拘束なし、ということで、大学から提供された部活用スペースの片隅に連絡ノートを置き、そこに好き勝手なことを書いたり、たまに、読書会などをやったりする、何だかファジーな集まりでした。卒業後、もうすぐ半世紀になりますが、この8人は一人も欠けることなく、毎年1回の懇親会は今も続いています。



 6.NHK入局        

 就職先としてNHKを選んだ動機は鮮明に覚えてはいません。強いてあげれば、従兄とか、義理の兄だとか、ジャーナリズムに身を置く身内が近くにいて、それがかっこよかった、ということがあったかもしれません。1969年春のことでした。
 なぜアナウンサーに?という質問をよく受けますが、その時、NHKの入社試験には、「技術職」以外の「文科系」には、アナウンサー、記者、放送、経営管理と4部門の提示があり、志望順位を書け、という決まりがありました。これを見て、経営管理は私には向かないなと、真っ先に思いました。次に、放送、ってあるが、放送って何だ?と、思いました。職種のイメージがわかない。後でわかったことですが、「放送」というのは、「デイレクター職」のことでした。つまり、その時点で職業としてはっきりイメージできたのは「アナウンサーと記者」で、提出書類にその順序で書いたら、そうなっちゃった、と言うだけの話です。どうも私は、何か決断をしなければいけない時に、ああでもない、こうでもないと、熟慮した上で選択と云うのではなく、そのとき、たまたまそこに来た自然の波に任せて、それに乗って動いてきたように思います。大学時代に「放送研究会」や「アナウンス研究会」などの部活は、全くしませんでした。「鼻濁音」という言葉は入社して初めて知る、といった有様でした。ことほど左様に、アナウンス技術などは、全くゼロからのスタートでした。

 入局して、2週間の研修期間を経て、最初の赴任地は高知でした。初めての親元を離れての日々でした。初掃除、初洗濯、初アイロン、人生のほとんどの「初」を高知で経験しました。
 お金を自分が管理して、それでひと月、次の給料日までつなぐ、という経験も初めてのことでした。着任して5日ほどは、放送部全体の歓迎会のほか、各セクションの上司、先輩が宴を開いてくれますが、1週間も過ぎると、それも、パタッとなくなります。「独り立ち」がそこから始まるわけですが、計画性のまるでない私は、お金があるうちは昼からステーキたべたり、鰻食べたりしていい気になっているのですが、当然、だんだん、持ち金はなくなって来る。
 着任早々だから、ツケが効く店もまだない。給料日の前日には、相当、悲惨な状態になります。
でも、飯は食わねばならない。そこで私は、「これは上司の家に行ってごちそうにあずかろう」と考えました。

 どうせ行くなら、一番偉いところに、ということで私は何の迷いもなく局長宅へと向かいます。
局長とは、局内で、すでに着任の挨拶はすませています。狙いは局長夫人でした。私は局長宅の呼び鈴を押します。「ハーイ」という声とともに、その局長夫人がドアを開けてくださいました。直立不動のまま、私はこう言います「このたび着任致しました松平です。よろしくお願いいたします」。それに応えて、局長夫人は「まあまあご丁寧に、こちらこそよろしくお願いします」とにこやかに応じてくださいました。着任の挨拶だけなら、これで終わりです。
でも私の今夜の訪問目的はそれではありません。一通りの挨拶が終わっても、その場を離れない私を見て、局長夫人は、少し、首を傾げられたかもしれません。とにかく、不自然な間(ま)が出来てしまいました。私は、これではいかんと蛮勇をふるって、もう一度繰り返します。
「このたび着任いたしました松平です」と、ここまで行って、殆ど間(ま)を置かずに、こう続けました。「つきましては、めし、食わせてください」。局長夫人は、少しの間、ポカンとなさっていたようですが、次の瞬間、はじけたようにお笑いになって、奥の方に走って行かれました。その夜ごちそうになった「ビーフシチュー」のおいしさは、終生、忘れるものではありません。それ以来、給料日の3日ほど前になると、局長は、放送部の私の席に用もなく来られては、「飯、喰えてるか」と聞いてくださいました。

 ちょっとした事件が起きたのは、それから1週間ほどたったころでした。天気予報のオンエアの時です。高知放送局は、天気を記号で書き留めるのが伝統?になっていました。北の風ならN。南東の風ならSE。雨なら「ア」、晴れなら「ハ」、曇りなら「ク」といった具合。
→は「のち」、スラッシュは「時々」です。そういう事情ですから、最初の頃は、30秒くらいのラジオの天気予報にも5分も前からアナウンスブースに入って、フリガナを振ったりして準備をして、万全を期します。でも、こんなことは、3回もやれば要領は分かってしまいますから、ブース入り時間も5分前から3分、1分、30秒とだんだん短くなってきます。
で、世の中そうしたもんで、最初のうちは大失敗はないものなのです。緊張しているし、十分に準備をしていますから、そうそう、失敗はしない。怖いのは、生半可に馴れてきた時です。
天気予報で事件が起きたのは、そんな時でした。つまり、ラジオの前で、全県の聴取者に向かって、天気予報放送を始めて1週間ぐらいたった頃。もう、私も馴れてきまして、気象用語の記号もマスターしたし、と余裕綽々で、この時も30秒前にブースに入りました。
そして、ゆっくり椅子に座って、机に置かれた天気予報用紙を見ます。そこで私は真っ青になりました。見たこともない記号が書かれてあったのです。「二」です。『高知県地方。
NE→E。「ハ」→「ク」。夜、山間部では「二」』とあったのでした。さあ,私は慌てます。
ブースの外に出て、先輩を探し出して聞こうにも、放送開始まで、もう、20秒もありません。
もうこうなると「二」の付く気象用語を必死に捜すしかないのです。「二」のつく気象用語、「二」のつく気象用語と、私の頭はフル回転です。そしてタイムアップすれすれ。窮すれば通ず、とはよく言ったもので、奇跡的にその気象用語が出てまいりました。
 「虹」でした。私は、ホッとして、落ち着いた声で、伝え始めました。「高知県地方、北東のち東の風、晴れのち曇り。夜、山間部では、虹が出るでしょう」。 私は、勤めを立派に果たして、意気揚々と放送部の自席に戻りました。放送部長が手招きしています。「なにか?」と、近寄りましたら、「君の天気には夢があるよなあ。俺も、死ぬまでに一度でいいから、夜、虹、見てみたい」————もう、ご賢察の通り、「二」の正解は「にわか雨」でした。でも、これは後日談なのですが、この顛末を書いた私の小文を、何かの拍子にご覧になった、お天気キャスターのハシリともいうべき『倉島厚さん』から、「気象条件がうまくいけば、月が太陽の代わりをはたして、夜、虹を見ることが出来ます」と仰って、アメリカ・ネバダ州の砂漠で撮影された夜の虹の写真を見せてくださったことも、懐かしい思い出になっています。


  
    
(インタビュアー注:https://pixabay.com/ja/ この写真では?フリーダウンロードしたものです)


 高知時代には、思い出としてこんな想いもあります。もう時効ですから、お話ししても良いでしょう。土佐湾に注ぐ、物部川と言う川がありますが、 この物部川は清流で、そこには、アマゴというマスの仲間が生息しています。体側に赤い斑点がある、かわいい、貴重な魚です。「物部川の上流で、そのアマゴの養殖に成功した」との情報が、ある日、もたらされました。早速、インタビューに赴きました。当事者である漁師さんは、マイクに向かってこうしゃべります。「養殖と言っても、味も、何もかも、自然のアマゴと全く変わりありません」
収録は無事終わりました。収録後にその漁師さんはこう言いました。「仕事、終わったんやろ。
一緒に、一杯やろや!」「イエ、イエ」と恐縮する私をしり目に彼は、釣り竿担いで、川に向かいます。「ちょっと、待っててな」「はい。あ、でも、いま、どちらへ?」「ん?アマゴ釣って来るきに」「いや、アマゴなら、ここに」と養殖池を僕が指さすと、「養殖もんなんて、食えやせん
()いか(・・)


        
   物部川 posted by 物部川漁業組合     天然アマゴ posted by 物部川漁業組合

  
<インタビュアー注:上の写真は物部川漁業組合の許可を得ての掲載です。現在は、アマゴ
   の稚魚放流のみで、養殖はされていない由。ご安心の上、美味なる天然のアマゴを楽しみ
   にお越し下さいとのことです。是非行ってみたいですね!>


 高知放送局で5年間勤務した後、1974年東京に転勤となりました。その後は、2007年の定年、更に役員待遇での2年間延長を加えた2009年迄、「転勤」はありませんでした。


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 7・NHK東京アナウンス室       

 東京に転勤となった4年後結婚、長男も誕生しました。「連想ゲーム」のような芸能番組、「みんなの茶の間」といった家庭番組、「日本語再発見」などの教養番組、など、いろんなジャンルの番組を、あれこれと、10年ほど経験したあと、1980年代半ばから「19時のテレビニュース」や「朝ワイド」や、「ニュース11」といったニュース畑に15年所属しました。
その間、各番組班を横断する「NHKスペシャル」にも、100本以上携わりましたし、昭和史報道、東ヨーロッパの社会主義国の連日の崩壊、東西両ドイツの統一、湾岸戦争、世紀越え特番も担当しました。

 そうそう、「ニュース時代の私」がひそかに自慢している「記録」があるんです。それは「昭和の最後と平成の最初」「20世紀の最後と21世紀の最初」のそれぞれのテレビの第一声は私が刻んだということです。もちろん、これは、二つとも、たまたまのめぐりあわせに過ぎないのですが、「元号代わり」のみならず、「世紀代わり」も、二つともその終わりと始まりの第一声をテレビに刻んだ人は、そう、多くないと思います。ひそかに、自慢にしていることです。

 さて、1989年から1991年にかけて、朝のニュース番組「NHKモーニングワイド(現・おはよう日本)」(当時7:00-8:13放映)を担当した時のことです。この番組を担当していた時の月曜から金曜までの、標準タイムスケジュールを、ご紹介します。まず、3時30分、起床、4時、迎えの車で自宅発。4時30分、NHK着、髭剃り、着替え、整髪などを済ませて、5時、番組の準備開始、放送は、7時から8時13分の間の73分間。この後は、何もすることが無いように思われがちですが、ご明察の通り、明日の準備その他で、帰宅は、毎日18時過ぎでした。風呂、夕飯、読書、たまに書き物などをすると、就寝は大体、23時過ぎ。
放送のある月曜から金曜までの5日間は、毎日の睡眠時間は4時間ちょっとという有様です。
こういう生活が2年、続いたのでした。

 少しは休息を取らないとまいってしまうな、と思った私は、11時30分から13時までは、昼休みを利用して、局内の蚕棚のベッドで仮眠を取るようにしました。宿直室には催眠剤用にと、本も並んでいます。ある日、何気なく手にした一冊が、藤沢周平さんの「踊る手」でした。
これが、後ほどお話しする10年掛けの企画提案で実現した「藤沢周平の朗読コーナー」に繋がるのですが、この日、仮眠室でたまたま手にした藤沢周平さんのこの本を読み進むうちに、私はぐいぐい、「藤沢ワールド」に惹き付けられていき、寝るどころの騒ぎではありませんでした。それまで、私の日常の中で、歴史小説というジャンルは余り近い存在ではありませんでしたし、藤沢周平さんという作家も、正直申して、あまり存じ上げなかったのです。全国的にも、知名度は、その程度だったと思います。それからというもの、本屋さんに日参、その時点で出版されている藤沢作品を全部買って、その世界に浸りました。幸せでした。その意味で言えば、藤沢周平作品に出会えたその時は、まさに、「私の人生が動いた」、「その時」の一つだったかもしれません。「今の、この『モーニングワイド』を卒業したら、この藤沢作品を全国の皆さんに聞いて頂く仕事をぜひ、やってみたい」と、その時、強く、そう思いました。


 8・その時、NHKを動かした    

 さあ、朝の番組「NHKモーニングワイド」の担当が終わりました。私は、すぐ、企画提案書を書きました。「藤沢周平の朗読番組」をラジオで編成して貰いたいという願いからです。
全国の皆さんに藤沢作品の素晴らしさをお伝えしたいという一心でした。提案書には、一切のBGM無し、一切の効果音なし、一切の擬音なし。私の声と間(ま)だけで、藤沢周平作品を全部、読む、というものでした。ラジオですから、映像も一切なし、です。勝負するのは私の声と間(ま)だけ、他の情報は何にも要らない、というような文言は、きっと関係者の目に「不遜」に映ったのでしょう。この企画書は、当初、何の反応もありませんでした。当初、どころか、結果として10年、そのまま据え置かれます。企画書を出して2年たって、何の音沙汰なしの事態に直面して、私も意地になりまして、全く同じ提案書を、一言一句変えずに、3年目から毎年毎年、出し続けました。

 そして待つこと10年。2004年3月、ラジオ局の幹部から電話がありました。藤沢さんのお名前が、全国的にじわじわと、浸透してきた時期でもありました。「話を聞かせてください」とのことでした。やっと来たか、の思いに感無量でした。で、その時の結論は「藤沢作品朗読、やりましょう」ということでした。まず、5月のゴールデンウイークの、月曜から金曜迄の5日間、「私の本棚」のコーナーでやってみましょうということになりました。結果が良ければ夏休み特集で、その評判も良ければ正月特集でやりましょう、ということでした。私も必死にやりましたが、幸いにも、すべてをクリアーできて、やっと、2005年から「ラジオ深夜便」の中に「藤沢周平作品の朗読」枠が持てるようになりました。1回15分ほどの放送時間でしたがレギュラー化して、何よりよかったことは、長編が読めることでした。まずは、代表作の一つ「蝉しぐれ」にとりかかり、2年ほどかけて完全朗読することが出来ました。完全朗読というのは、読み手の都合や番組の時間の都合で文章を勝手に省略することなく、書かれたまま、そのまんまに、一字一句、完全に朗読する手法です。

「藤沢周平の朗読」は、2007年、NHKを卒業した後も続き、そのまま2012年迄、放送されました。どちらかというと、地味な仕事でしたが、これは、NHK時代を通して、私の最も記憶に残る番組の一つとなりました。



 
閑話休題2(平野の筑駒30期同期生、NHKディレクター真銅健嗣さんからのメッセージ紹介)

(インタビュアー注:松平定知さんへのインタビュー中、筑駒出身のNHKマンの話になり、平野ホームページ委員長の同期の真銅さんの話になりました。松平さんも「彼とは、一緒に仕事をしました」というところから、彼が仕事中に赤痢に罹ったという話にまで、広がっていきました。平野から真銅さんに連絡を取ったところ、以下のメッセージが寄せられました。松平さんのお人柄の紹介ともなります。真銅さんご本人の了解の下、そのままご紹介させていただきます。)

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   おお! 平野さま

   ご無沙汰しております。
   正月の飲み会以来ですね。

   NHK松平さんのお話し、
   ハイ、それは私です。

   お仕事でいいますと,
   20年ほど前、お正月にカンボジアのアンコールワットから
   テレビナマ中継番組をやりました。
   朝の部、昼の部、夕方~夜の部と3パートあり、
   私は昼の部のメイン中継ディレクターでした。
   番組の3パート通しのキャスターが松平さん。
   もちろん、現地でご一緒でした。
   番組当日以前にも下見などかねた取材で、
   松平さんとアンコールワットに同行しました。

   赤痢も本当です。
   中継本番当日、自分担当の昼の部終了後から
   体調がおかしくなり、
   必死に耐えて、なんとか帰国しました。
   ちょっと心配だったので、
   NHKの医務室に相談し、
   検査したところ赤痢菌がみつかり、
   私はほぼ2週間の隔離入院。
   成田空港からの帰り、具合の悪そうな私を気づかって
   松平さんはタクシーで私の自宅を経由してくださいました。
   が,それが仇となり、
   松平さんの自宅が保健所の係官にからかなり濃厚に
   消毒されちゃったみたいです。
   松平さんにはホント、申し訳ないことでした。
   海外で時間があったので、
   自分が後輩であることを告げて、
   松平さんに、とても喜んでいただけたこと、
   よく覚えています。

   とりあえず、記憶のまま、
   つらねちゃいました。

   またまた、よろしくお願いします。
   真銅健嗣 (しんどうけんじ)
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 9・NHKフィナーレを飾る「その時歴史が動いた」       

 NHK入局して30年余が経過しました。総仕上げの時にピッタリ重なったのが、「その時歴史が動いた」の番組でした。西暦2000年の春のこと。NHKは2000というキリのいい年に、二つの目玉番組を同時にスタートさせました。「その時歴史が動いた」はその一つでした。
一緒にスタートしたもう一つの番組は、そのテーマ曲が紅白で歌われるほどの人気を博しましたが、その演出方法に大いに問題ありという視聴者からの指摘が相次ぎ、4年目でしたかいつでしたかの年度途中で、放送が打ち切りになってしまいました。我々「その時歴史が動いた」は、それを他山の石にして、「感動の強制」や「共鳴の押し付け」は、番組の制作手法として断固として排して、「つとめて普通に、誠実に」を合言葉に、愚直に、確実な番組作りに徹しました。おかげさまで、当初の予想をはるかに超える、「同一キャスタ―、一人でまる9年」という歴史番組としては最長不倒の記録を作り、皆さんに惜しまれながら番組を終了することができました。当時のスタッフとは、年に一回は会食しているのですが、会うたびに、「幕の引き際がよかったなあ」と、いつも言っています。視聴者のお陰、NHKのお陰、みんなに感謝する番組でした。

 「その時歴史が動いた」の外ズラだけでなく、この際ですから、その内側もちょっとごしておきます。まず。この「その時歴史が動いた」という番組は、東京制作ではなく、大阪放送局制作でありました。従って、私が、毎週、大阪に出張して、番組を作って来る、というスタイルでした。毎週火曜日、東京発10時の新幹線で大阪に向かい、水曜日か木曜日に東京に帰って来る、というスケジュールでした。

 それと、もう一つ。「東京制作ではない」ということは、名物プロデユーサーや有名デイレクターが、そこにはいない、ということです。経験も実績も極めて乏しい、若手のデイレクターたちが悪戦苦闘しながら一本一本を作り上げていく番組だったということです。
番組制作グループのデイレクタ―の最年長は入局10年目の男でした。そして、これはNHKに感謝しなければなりませんが、NHKは彼らに、一本の番組を作るのに100日の時間を与えました。ウィークリーの番組で、「1本100日」は、まことに有り難い、日程だと思います。
「じっくり、一から丁寧に作ってみろ」という『檄』、でありました。彼らは、ネタの発掘から構成、ゲストの選定と出演交渉、劇中劇の台本、役者の手配、スタジオの確保、ゆかりの場所の取材、映像、編集、コメント、全部、「一人で」やります。収録日の前の1週間ほどは自宅でゆっくり布団かぶって寝る、なんてことはなかったのではないか思います。彼らにとっては、まさに真剣勝負で。私も、ここで若手の未来を潰しちゃいかんと思うから必死です。

 毎週火曜日、10時の新幹線に乗り込むと、前日までに、担当デイレクターから送られてきたVTR映像の陰に入れるナレーション原稿とVTRを除いたスタジオ部分の時間、つまり私がカメラに正対して視聴者に話しかける部分とゲストと話す部分の、いわゆる、私のスタジオでの「顔出し部分」の私の持ち時間が、シークエンスごとに秒単位で記されている「台本」を手にします。そして、その、スタジオでの顔出し部分の、私のコメントを、書き始めます。
これが毎週の、東京大阪間の新幹線の中でのルーテインでした。(完成したVTRにつけるナレーションコメントは、当該デイレクターが、予め作成した原稿を、大阪放送局に着いた日に、映像を見ながら、当該デイレクターと一緒になって、事実関係の確認や映像時間の按配も含めて点検して、言葉を決めていきます) 私のスタジオ部分の発言内容は、全て、私に任されました。

 幸い、座席は2席取ってありますので、隣の席は資料席として使うことができました。進行プログラム表に、秒単位で書かれてあるスタジオ部分の時間に従って、自分の発すべき文言を書き込んでいきます。全部書き上がるのが、三河安城あたり。それからは、ストップウオッチ片手に時間を計測しながら、読み上げ、プログラムに求められる所要時間に合致しているかどうか確認、調整していきます。名古屋駅から岐阜羽島駅を過ぎるころには、納得できる時間調整が完了です。そこで駅弁をほおばりながら、あとは最終調整。そして、大阪駅を降りる時には、精魂込めて書き上げた原稿は、全部破り捨てます。ここが、ミソです。
捨てちゃうんです。「せっかく書いたものだから」と、それを覚えようとしてはいけない。
暗記しようとしてはいけないのです。書くことで、そのパートで言うべきことの情報を整理できます。そして、「書く作業をした」ことで、その時に発すべき言葉は、身体の中に浸み込んでいく。言葉が肉体化していくのです。上っ面だけの、どうでもいい軽い言葉ではなく、それぞれに、そのシークエンスで、きちんとした意味を持つ言葉になっていく。こういう
作業を通して仕上げたのだという「自信」があれば、「覚える」ことは不要です。不要というより、害悪です。全部暗記していくと、助詞の一つ、接続詞の一つを忘れると、全体が真っ白になってしまいがちです。
―——苦労して考えたコメントを破り捨てる「勇気」が、本番での「覚悟」につながっていきます。

 私は、この番組のスタジオには、9年間、何も持たずに入りました。メモナシ、台本ナシ。
もちろんプロンプターなし。スタジオで、その時がきたら、スタジオのカメラの向こうの視聴者に向かって、その時、新たに言葉を紡ぐのです。新幹線の間中、一心に準備してきたという事実が、内容も時間も、「その場」に要求されたことと大幅に違うことはない、という自信を生み、それが、その時の私を支えます。そのようにして発せられた言葉は、カンニングペーパーやプロンプターにあらかじめ書かれた文章を、トチらず、綺麗に読むより、相当凸凹した「出来」になっています。それは、何も見ない、何も暗記していないで、その時、言葉を新たに紡いでいるのですから当然のことです。でも、視聴者の胸に落ちる理解度、納得度は書かれた文章を、ただ上手に読んだだけより、はるかに、深いものがあります。その場で、必死になって、視聴者にわかっていただけるように言葉を紡ぐこと、が大事なのです。
「伝えたい柱」があって、そのことが伝わりさえすれば、助詞が飛んだり、主語の位置が違っていたり、「えー」や「あー」や「あのう」といった、本来、不要な、冗長な言葉や音が入っても、むしろその方が、「立て板に水」より視聴者の理解度を促進させる作用がある、ということを実感しました。

 これは、かつて、劇作家の平田オリザさんが「冗長率」という言葉で主張なさったことがらです。まあ、あまりにもとちりすぎたり、つっかえつっかえの度合いや数が多い人、つまり話す訓練の皆無の人は論外ですが、その訓練を多少なりとも積んできた人にとっては、冗長率ゼロの完璧なコメントより、ある程度の「無駄言葉や、びっくりするような間(ま)」を、あえてちりばめる方が、全体として理解し易い、つまり、「冗長率が、『そのこと』の理解と説得力に、大きく作用する」というご主張なのですが、これは、実際にやってみて、まことに傾聴に値する理論であることを再認識しました。カンニングペーパーやプロンプターを使っての伝達や、文章丸暗記の伝達は、相手の胸には届かない、伝わらない場合の方が多い、
―――このことを、日々体感させてくれたのが、この番組でした。
NHK人生の集大成として、本当に素晴らしい番組に巡り合えたものと感謝しています。

  
閑話休題3 (NHK記者・キャスター 磯村氏の影響) 

 日本の報道番組を変えた、報道番組の「伝え方を変えた」と言われた「NC9」の初代キャスター磯村尚徳氏からも、私は大いに影響を受けました。かつて、ロシアが不参加を表明したロサンゼルスオリンピックの時は、彼のNHK放送総局長の時代でしたから、彼はオリンピックNHK放送団長でした。磯村氏と一緒の仕事をしたのは、この時が初めてでした。
そういう事情もあったのかもしれませんが、その磯村氏のNHKの放送グループの結団式での挨拶が、今も、鮮明に記憶に残っています。—————「このオリンピックの最大の参加国はロシアであることを肝に銘じてください。誰が何秒で走って何色のメダルを獲ったか、ということも多くの国民の皆さんの関心事ですから、当然これも気合いを入れて報道しなければならないけれども、でも、それは、オリンピックセンターに問い合わせれば、データとしてそこにきちんと入ってきていて、聞けば、必ず、教えてくれることになっています。ということは、これは、場合によっては、学生アルバイトの諸君でもできる仕事です。ですから職員の皆さんには、その「記録」の裏を含めた周辺を取材してください。
アンテナを張り巡らして、その「人や競技や国」に関するありとあらゆる情報を貪欲に収集することに力を傾注してください。レース、そのものもさることながら、サイドネタの厚さ薄さが、「そのニュース」のバリューを決める、と思ってください。1に取材です。2,3がなくて4に取材です。その意味で言えば、ちょっと気障に言えば、送られてくる外電の、記録以外の個所が無造作に捨ててある「ごみ箱」も重要な取材源の一つ、ということもなるかもしれません」。この「ゴミ箱を捜せ」演説に、私どもは奮い立ったものです。

  
10・NHK退職後の活動         

 現在は、京都造形芸術大学芸術学部の教授として、若い学生を相手に教鞭をとっています。
今日(2016年10月4日インタビュー当日)も、この後、講義が控えています。(ここは京都造形芸術大学の東京キャンパスです)今日は朗読をやります。この「朗読の授業」は、現代文と古文の両方をやります。現代文は藤沢周平作品です。古文は、紀行文の代表・「奥の細道」と言葉のリズムが命の「平家物語」を交互にやっています。回数は、藤沢作品は1ターム5回を2ターム。計10回。そのあとの、奥の細道も10回ですが、平家物語は6ターム、30回です。
巻第一から灌頂巻まで、全文、生徒さんが一人ひとり、みんなの前で、声に出して、実際に読んで貰います。口伝文学のこの「平家」は、隨所に「省略」があって、何をもって「全文」というかはともかく、要するに「平家物語」と表題がある本を一冊、全部読んじゃおう、という試みです。

 今日は、その平家物語の順番の時です。途中に10分ほどのコーヒーブレークをいれますが一回は、160分の授業です。日本語の素晴らしいリズム、とりわけ、文語の心地よいリズムを実感し、体感するのは、この平家物語を音読するのが一番です。
「祇園精舎の鐘の声・・・・・」皆さんも、たまには大きな声を出して「・・・・・偏に風の前の塵に同じ」までの3行たらずでもいいですから音読してご覧になっては。

 70歳を超えると、大学も定年です。70になった時に、学部学生を相手に授業をすることはなくなりました。本当にほっとしました。この年になると、小さい字は読めませんし、ですから行(ぎょう)間違えは頻繁です。成績をつける成績表の作成は、本当に神経を使いました。本来「A」だった学生が、一行(いちぎょう)、私が見間違えたがために「E」と判定してしまったら、そのAの学生にどう謝ったらいいのか、それを思うと、毎年、胃が痛くなる思いをしてきました。それから解放されて、今はのびのびの毎日です。

 他の大学では、例えば、エクステンションクラスで、240人くらいの老男女を相手に、歴史上の有名な事件を勝手にピックアップして、それが起こった時代背景や人間関係はきちんと押さえつつ、言われている歴史的事実が本当にそうだったんだろうか、ということを、大胆に想像の翼を広げて、文字史料命(いのち)、記述史料最優先の風潮にちょっと抵抗する授業もやっています。言ってみれば、「これまでの歴史常識に、異論あり」といった趣の授業です。ですから、日々、新鮮で、楽しいです。

 
11・後輩に贈るメッセージ  

 筑紫哲也さんが、死の半年ほど前、ベッドの上で書かれたメモに、「もういいやという気もする。」という一説がありました。あれほど好奇心の強い、好奇心の塊のような人だったのに、と、私は、改めて、胸、蓋がれる思いをしたことを、いま、思い出しています。そのメモは「面白いことが見つからなくなると、途端に支えるものがなくなる。」と続き、最後にもう一度、自分を奮い立たせて、「頼りは好奇心か。」で、その日の記述は終わっています。

     
私たちを突き動かしているのは、「好奇心」です。

 だから、長時間、この、ただ長いだけの駄文をお読みくださった若者たちに、そのお礼とともに、送る言葉は、この言葉にしました。

     
「青年よ。宇宙の森羅万象に多情多恨たれ」 武田泰淳


             
 [完]



            筑波大学附属駒場中高等学校第11期生 松平 定知


                                          以上
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